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「西荻窪の空と、僕と私たちの世界」第4号

2013年9月某日

(山﨑から田中先生へ)

 さて前回、田中先生からいただいたお題は「無人宇宙探査機ボイジャー1号に積まれた1枚のレコードに託されたものと、われわれの普段のコミュニケーションは同じか否か」ということでした(でしたよね?)。正体の分からない宇宙人が相手であるコミュニケーションと、共通の言語(わたしたちであれば日本語)が共有された相手とのコミュニケーションというのは、普通に考えたら、もちろん全くの別物です。だから、あのような質問が投げかけられたということは、田中先生に思惑あってのことだと思います。きっと、「普通に考えたら全然違う? ふふ。そんなことを聞いているわけではないのですよ。山﨑さんなら、この質問の深い意味を理解し、知的成熟に資するような答えを用意してくれますよね?『言語とは強固な共通基盤たりえるのか』というパスまでだしてあげたのですから」とおっしゃられているのでしょう。「そこまで言うなら」と(全部妄想ですけど)、僕も重い腰を上げて、丸い背中をさらに丸めて、パソコンをパチパチたたき始めたわけです。

 で、前回ぼくはどんな話をしたかというと、「コミュニケーションとはむしろ、メッセージの受け手の『身勝手な解釈』を常態とするものである」なんてことを言ったんです。だから、平安時代の人が、夢の中に好きな異性が出てきて「あの人は私のことが好きなんだ」と解釈したり、僕が「夢の中にいる生徒の表情」を見て現実のふるまい方を見直したりすることも、他者とのコミュニケーションと言ってもよいのだ、ということでした。

 この話は、「送り手がメッセージをできるだけ正確に受け手に伝えること」をコミュニケーションの本義であると考えている人には理解されません。当然ですね。送り手が送ったつもりのないメッセージ(夢だし!)を、受け手が勝手に受け取った気になっているだけのことを僕はコミュニケーションだと言っているのですから。ここに「メッセージの正確な伝達」なんてものはありません。あるのは、「僕に向けてメッセージが投げかけられている」と思っている受け手の存在だけです。でも、この「宛先が自分であると思い込む」ということからしかコミュニケーションは始まらないはずなんです。

 言語が未発達な時代を仮定的に想像してみましょう。例えば、ある人が発した無意味な「ウゴウゴ」を、偶然そこにいて聞いてしまった別の人が、「これは自分に向けて言っているのだ」と勘違いをして、そこから受信感度をグンとあげてその人の状態を観察し、「こいつ、腹が減ってるのか?」とご飯を差し出す。その結果として、お腹がすいた人は「ウゴウゴ」といえば、ご飯がもらえると学習し、お腹が減ったときには「ウゴウゴ」と言う。また「ウゴウゴ」と言われたほうも、「ああ、こいつは腹を空かしているんだな」と分かるようになった。案外、言語の発生過程というのはこんな感じだったかもしれないと思います。

 コミュニケーションにおいて大切なことはコンテンツではありません。内容が「正確に」伝わらなくてもコミュニケーションは成り立ちます。さきほどの「ウゴウゴ」には送り手にとってなんの意味もありませんでした。「ウパウパ」でも「ウピウピ」でもよかったわけです。でもその無意味な「ウゴウゴ」を「自分宛てのメッセージ」と受け取った人が表れた瞬間に、そこで二人の関係性が開かれていくことになる。コミュニケーションにおいて、送り手の意図したメッセージ内容と、受け手の解釈するメッセージ内容には必ずズレが生じます。送り手の側だけを見ても、メッセージを発した瞬間に、その発せられた内容が自分の意図したものにすでに遅れてしまっていることに気がつき、言いたいことを「そのまま」伝えようとすればするほど、思いは言葉からこぼれていくのです。コンテンツの正確な伝達にこだわっている限り、コミュニケーションは常に不調に終わります。じゃあどうするか。コミュニケーションって一体なんなんだ。むなしいぜ、ちくしょう。…?

 メッセージを発信するときに、僕が気をつけていることがあります。それは、「きみ宛てのメッセージだよ」ということを、きみにしか気づかないような仕方で気づいてもらえるようにすること、そして「読み手の創造性」を深く信じることです。僕のメッセージが受け手に届いたとき、唯一共有できる内容は「あなたとの新しいコミュニケーションが始まっている」ということです。メッセージは送り手によって「新たな関係性の可能態」として空間に投げ出されている。それを受け手が「自分宛て」だと思って受信したところから新たな関係性が構築されていく。僕にとってメッセージを発信することは、「あなたとの新しい関係性の先取り」なんです。そして、これこそがコミュニケーションというものの正体であるような気がします。

 だから僕は、「夢の中の出来事」だとしても、それを現実に自分が受信した微細なメッセージの総体だと思って、具体的な他者に対するふるまいを変えていくことがありますし、相手が「死者」であっても、投げ出されたメッセージをキャッチして関係性を更新することができます。ただ、さすがに、「宇宙人」をメッセージの送信者として、それを受信するということは経験にないのですが、すでに1枚のレコードが宇宙人との「新たな関係性の可能態」へ投げ出されているわけですから、あちらからなんらかのメッセージが送信されることは現実的に想定できるんですよね。いやあ、スケールが大きいなあ。

 と、話がとっ散らかっているあいだに、初の両面バージョンに! うむむむむ、今回はうまくまとめることができませんでした。読みにくい文章で申し訳ないです。でも「今まで強固だと思っていた言語という共通基盤が実は脆弱だったことに気づく」というのは思春期に多くのひとがぶつかる壁のひとつだと思います。クリアな回答にはなりませんでしたが、皆さんもご勘弁くださいね。最後に言葉を置いていきます(田中先生の真似!)。

分かり合えなくてもよい。分かり合えないきみとでも、こうやってコミュニケ―ションができているという事実こそ喜ぶべきではないか。大切なのは笑顔の理由ではない。ぼくときみとがこれからもそばで笑いあえるということなのだ。 」(ヤンケ・ザマケスキ-)