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「西荻窪の空と、僕と私たちの世界」第5号

2013年10月某日

(田中から山﨑先生へ)

 たとえば、瓶の中に手紙を詰めて海に放り込むという行為。よし、ここから出発してみよう。最終的に「書くことは、祈りの一形態である」という前号の言葉に辿り着けばいうことなし、話が逸れたらそれはそれでよし。

 ドイツから送られた瓶入りの手紙が、バルト海を漂い、24年後にロシアで発見される———2年前、実際に起こったできごとです。実に驚くべきことだと思いませんか? 24年! ドイツからロシア! でも、もっともっと不可解なことがありますね。こんな無意味なことをする「人間」なる生物っていったいなに!? だってそうでしょう。ふつうメッセージって、伝える相手を事前に想定して発信するものではないですか。暇だったのか? はい、ただの暇つぶしだったようですね。記事を読むと、瓶を船上から投じた少年(当時)は、メッセージが返ってくるまで自分が瓶を投じたことを忘れていたくらいですから。だけど、このできごとを僕たちは面白いと感じる。少なくとも国際的に報じられる(かつ2年経った今も容易に検索できる)程度の面白さはあるようです。その理由は簡単です。このできごとが、僕たちの日常的なコミュニケーションのありかたからかけ離れているからです。人間はこんなふうに意思疎通を図ることもできるんだ。そう僕たちは胸打たれるわけです。

 もうひとつ、興味深いコミュニケーションの一例を漫画『NARUTO』からご紹介しましょう。主人公ナルトは、自分の里を守るための戦いに苦戦し、追い込まれる。彼を愛する少女ヒナタが自ら命をなげうって彼を救おうとするも、少女は無残に倒される。それを目の当たりにしたナルトは凄まじい怒りに我を忘れ、体内に封印されていた妖狐「九尾」に自我を半ば吞みこまれ、“闇”に身を委ねようとする。が、まさにその瞬間、夢とも幻とも判然としない空間で、生まれて初めて自分の父と出会う――。ナルトの父、波風ミナトは、ナルトが生まれた日に死んでいます。父が死んだのは、里の破壊を目論む侵入者から里全体と息子を守るためでした。同じ理由で母親も犠牲になりました。つまりナルトは、この時(16歳)まで、両親と会ったことはなかったのです。なにがこの再会を可能にしたのか。父ミナトは、死の直前、ナルトの体内に封印した「九尾」が制御できなくなったときに初めて発動する特殊な忍術を仕込み、わずかな間だけ自分が息子の脳内に現れ、対話できるようにしておいたのです。つまりミナトは、自分の息子を襲うことになる脅威をあらかじめ見越して、16年も前に、未来のコミュニケーションを先取りしてメッセージを埋め込み(=術を仕掛け)、それから死んでいったのです。ほんとうに感動的なコミュニケーションだと思いませんか? 僕は『NARUTO』が大好きで、この漫画に描かれている「忍者」とはいったいなにか、「九尾(を含む尾獣たち)」とは、「師弟関係」とは、「憎しみの連鎖と平和」とは、といった具合に、1週間くらいぶっ通しで語り続けることができるほどですが、それはまた別の機会にゆずりましょう。

 さまざまなコミュニケーションのありかたの可能性を示すこと。これこそ、今号までの《西荻窪の空と、僕と私たちの世界》に通底してきた(意図せぬ)主題でした。一方で、僕たちの日常生活における一般的なコミュニケーションは、どのようなかたちで展開しているのか。もちろん基礎となるのは他者と面と向かっての対話・会話ですが、それ以外にも僕らは実にヴァリエーション豊かなコミュニケーション手段に囲まれています。Eメール、LINE、Facebook、Twitter……。僕らはそこで、あなたの発言にレスポンスしたり、彼が発信した情報をあなたと共有したり、彼女が撮ったあなたの写真を彼に送ったりする。これらのコミュニケーション・ツールのベースには、ひとつの共通した特徴があります。それは、多かれ少なかれ「即時対応」を要求するということ。とりわけ「タイムライン」と呼ばれる表示形態においては、それこそ秒・分単位で反応(返事・同調・批判/リツイート/「いいね!」)しなければ、参加者は刻一刻と取り残されていく。もちろん、時間が経ってからレスポンスしたところで大した問題はないけれど、「鮮度」が重要なファクターとして機能していることは疑いえない。それはそれでいい。僕自身、これらのツールをそれなりに活用していますし、かなり楽しんでもいます。凄まじい速度でメッセージを交換できるスマートフォンのメッセージ機能やLINE、雑多な情報が入れ替わり立ち替わり表示されるTwitterのタイムライン、世界中に散らばる友人たちの動向をリアルタイムで共有できるFacebook。たしかに技術は進化している。それは僕らにある種の喜びをもたらしてはいる。

 それでも、コミュニケーションは別のかたちでも存在しうる、ということだけは伝えたい。すべてのメッセージが〈既読・即・返信〉のプロセスを辿る必要はない。メッセージの宛先はすぐそばにいるあなたかもしれないし、まったくの他人かもしれない。読まれるのは今すぐかもしれないが、16年後や24年後になることもあり、はたまた幾世紀か後になることもあるかもしれず、現に、僕たちのメッセージを運ぶボイジャー1号が行き先も知らず地球を発ってから、すでに35年が経過しているのです。

 僕たちは、ひょっとしたら相手が一生気づかないかもしれない・でももしかしたら気づくかもしれないメッセージを送ることができる! こんなに素敵なことがあるでしょうか? さて、僕(田中)の中で細々と言葉を紡ぐ仕事をしている「タナカさん」が、「今日はもうおしまい」と申しておりますので、しぶしぶここで筆を擱くことにします。まだカフカの言葉の解説が済んでいないのですが……と掛け合ってはみたのですが、タナカさん曰く、「いや、そのことはちゃんと書いたよ」とのことでした。それでもまだ納得がいかず首を傾げていると「ふん。君にはわからなくとも、山﨑くんならわかる。安心して送りなさい」とのこと。田中は、タナカさんと山﨑先生をとりあえず信用することにしているので、よくわからないけど、このまま送ります。あとはよろしくお願いします。ぺこり。