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「西荻窪の空と、僕と私たちの世界」第6号

(田中から山﨑先生へ)

 どうも、戦う英語教師田中です。舞台裏を晒すのもアレですが、我々はすでに三度「別れ」について書こうとして、苦戦していますね。どれだけ書き直してもなかなか思うようにいかない。とはいえ、今回こそ書き上げなければなりません。

 かねがね思っていたのですが、僕と山﨑先生には共通点がありますね(違っている部分の方がもちろん多いのですが)。それは、「基本的にはポジティブ志向・思考」というところ。この「基本的には」というのが肝心で、いついかなる場合でもポジティブであるということではなく、むしろ、様々なマイナス要因に日頃から目を配り(この点に関して僕はまだまだ未熟なのですが)、多くの問題点を孕む現状を直視しつつ、「でも最終的には何とかなるだろう」、「何とかしていい方向に持っていこう」と考える、そういうところで似ていると思います。「「別れ」を前にして、ただ立ち尽くすのではなく、言葉を紡ぎだすことによって「別れ」に積極的な意味を持たせ、その「別れ」を受け入れられるものにしようとしている」という山﨑先生の言葉は、まさにこうした姿勢の一つの表れであろうと思うわけです。

 ところが面白いことに、人間というものは様々な側面を同時に持ち合わせているもので、「別れ」を前にして、ただ立ち尽くす、それもまた素晴らしい!と思う僕もいるのです。というわけで、次号で山﨑先生がお話しするのであろう内容と、あえて180度違った方向に突き進んでみましょうか(戦士の生意気をお許しください)。

 我々はふつう、積極的であることが消極的であることより素晴らしいと思っています。いったいこれはどうしてなのでしょうか。たとえば、この往復書簡の盗み聞きリスナーたちは、現在受験生です。また、我々自身も一企業に身を置いて英語や数学を教える教師です。受験生諸君は日々勉強に勤しみ、我々教師も教職に勤しむ。こうした文脈で我々の活動を捉えるとき、その生産性を向上させるためには、消極性より積極性が重視されることは言うまでもありません。「あーあ、今回の模試、英語ひどかったなぁ、あんまり勉強してなかったからなぁ、いやでも田中先生の教え方も最近よくわからないし、あーあ、どうしよー、うじうじ」とか、「あーあ、今日も授業うまくいかなかったなあ、みんな全然できてなかったもんなー、きっと俺の教え方が悪いせいだよなぁ、あーあ、どうしよー、うじうじ」と悩むより、「今回の模試、英語良くなかったな。何が原因だろう? そうか、文法問題で失点しているのか。文法が私の弱点だ。よし、すぐに弱点克服にかかろう」とか、「今日は生徒の出来がよくなかった。どうすべきか。どうやら彼らには語彙力が不足しているようだ。よし、来週からは語彙力強化のための宿題を課そう」といったふうに考えたほうが、勉強や仕事は捗ります。これは、受験勉強や仕事のように、生産性(いかに効率よく多くの成果を出すか)が求められるものに関しては「ふむふむ」と納得できます。

 では、今回のテーマである「別れ」に関してはどうか。いや、話は厳密に進めましょう。山﨑先生が「別れ」に生産性を求めているわけではないことは明らかです。そうではなく、生活・人生全体をできればポジティブに進行させたいという姿勢が前提としてあり、その人生の中にときどき訪れる——そしてどうやら近々訪れるらしい?——「別れ」をどう捉えるか、こういう問題なのです。

 さて、ここで興味深い人物を一人紹介しましょう。僕のごく近しい知人に、やはり教師を務める女性がいるのですが、この人には驚くほどポジティブさが欠けているのです。そのネガティブさたるや凄まじく、ありとあらゆる点を自分の過失や至らなさに帰結させ、うまくいっていない現状がある・自分には問題がある、ということに四六時中頭を悩ませているのです。はじめは僕も、もっとポジティブに考えてはどうか? あなたに問題があるわけではないのではないか?というようなアドバイスを再三してみましたが、あまり聞く耳を持ちません。まったく困ったものだと半ばあきらめつつも、僕はあることに感心してもいました。というのは、「悩む」という行為は、人間から莫大なエネルギーを奪います。したがって、この先生には、ずっと悩み続けるだけの体力・持久力があるということなのです(まあいつも疲れきっているようですが)。そして僕は同時に気づいたのです。自分にはこんなに悩み続けるだけの体力はない! 悩み続けるだけの忍耐力がない人間はどうやって現実と向き合うのでしょうか? そうです、物事をポジティブに考えようとするのです。〈今ここにある問題がある〉→〈そうだ、ポジティブに考えてみよう!〉→〈なんだ、たいしたことはなかった〉〈それどころか、こんないいことがある!〉といったふうに。

 「別れ」について話していたのでした。我々はしばしば傷を負い、痛みに苦しみます。それは生きているかぎり避けられないことです。ところが、避けられないとは知りながら、そうした傷や痛みをネガティブなものだと決めつけているのです。いや、それは間違いなくネガティブではある。だって、ほんとうに苦しいのだから。こんなきれいごとを言っていられないほどつらく、苦しい。しかし、それは「悪」なのか? そのことについてはよく考えてみるだけの価値があります。なぜ我々は離別に伴う苦しみを正面から受け入れようとはしないのか。受け入れる、つまり、「別れ」がもたらした寂しさ、悲しさ、虚無感といった感情や感覚を抱えたまま生き、それらを追い払おうと努力しない。自分の中にそういうネガティブなものたちが巣食うのを放置し、飼い続ける。苦しみと共存する。体力は必要です。エネルギーも根こそぎ持っていかれるでしょう。でも、そんな生き方があってもいいはずです。

 こういうことを書くと、「田中がずいぶんネガティブなことを書いている。けしからん」といった反応がかえってくるかもしれません。ごもっとも、申し訳ありません。でも、やはり僕は根がポジティブなものですから、後ろ向きなことは書こうとしても書けないのです。上の段落に書いたことは、後ろ向きに見えてその実、苦しみをできるだけ早く払拭するための僕なりの最善策でもあるのです。だって、きっといちばん苦しいのは「この苦しみをなくしたい、でも何をしてもこの苦しみが消えてくれない……」という状態だから。それなら初めから、「あー苦しい、寂しい、悲しい」とただ立ち尽くすほうが楽です。繰り返しますが、ほんとうに苦しいときはこんなきれいごとは受け入れません。一時も早く苦しみが立ち去ることしか望めません。でもこうするほかないのではないか、と僕は思います。

 さて、今回は生意気なことをたくさん書きましたが、ご容赦ください。さて次号、「別れ」とは「赦し」である、どんなお話が聞けるのでしょうか。楽しみです。それでは。

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