「西荻窪の空と、僕と私たちの世界」第7号

2013年11月某日

(山﨑から田中先生へ)

 「戦う英語教師」田中先生、こんにちは。ここ数回の書簡は両面印刷が当たり前となっていますが、山﨑はあまりうまく書くことができず、その分、田中先生に長文をお任せすることになってしまい申し訳ありませんでした。ご安心ください。今回は書けるような気がしております。台風の接近とともに、“風”を捉えられそうな気がしているのです。 

【お知らせ】 この往復書簡プロジェクトですが、次号の第8号を区切りとさせてください。勝手を言って申し訳ない。

 「別れ」とは「赦し」である。分かりやすくお話しさせていただくために、まずは、僕にとってのいくつかの「別れ」から始めさせてください。

 予見されていた「別れ」ではありました。それでも、3年後、あるいは5年後くらいには、自分もそこに呼ばれるものだろうと思っていました。練習はバッチリだったのにな。「いいともっ!」って。

 お昼休みの定番ともいえる、ある番組が来年の3月いっぱいで幕を下ろすことになりました。ただ、僕自身としては、驚きはありませんでした。たんに興味がなかったからとか、そういうことではありません。ヘビーウォッチャーではなかったですが、子供のころから幾度となく観てきた番組ではあったわけです。だから「いつもそこにあったはずのものがなくなる」という寂しさはあります。それでも驚かなかったのは、昨年からでしょうか、番組のなかに小さな変化が表れ始めたからです。僕はそのたびに、「ああ、終りが来るのかもしれない」という予感と、寂しさをともなう「小さな別れ」を経験してきたのです。

 そして、もう一つは中3のあのクラスとの「別れ」です。もちろんひとりひとりとは、何かご縁があって、どこかでお会いすることもあるかもしれませんが、中3である彼ら彼女らに、西荻窪のあの教室で授業をする回数はそれほどのこってはおりません。あのクラスのために使えていた僕の幸福な時間が、いきなりゼロになってしまうのは、いまだに想像ができず、考え出すとなんかソワソワしちゃうので、あまり考えないようにしていたくらいです。そして、前々回、ふいに(これもいつものカフェで)「別れ」ついて書かなくては、と思ったのです。

 田中先生は「『別れ』を前にして、ただ立ち尽くす、それもまた素晴らしい!」とおっしゃられました。さすがは田中先生、この言葉がまた僕の知性を活性化させてくれています。ちょっと書いてみましょう。

 「ただ立ち尽くす人」のpositive thinkingについて。震災で家族も家も仕事もすべてを奪われ、海を眺めながらただ立ち尽く漁師。ほん数日前までは、当たり前のように描けていた未来は、今はそれを想像することすら苦しい。それでも彼が生きていくためには?

 あるいは「幼児のpositive thinking」と「成人のpositive thinking」について。自分の身に起った出来事をどう解釈するのか。わたしたちは、本当は何が起こるか分からない世界の中に生きています。目の前の人がいきなり鼻クソを飛ばしてくるかもしれないし、見上げると空から何かが降ってきて(鼻クソでもいいけど)、それによって国が亡びるような事態が起こるかもしれません。でも、普段はそんなこと考えませんね。いちいち、そんなこと考えていたら「普通」じゃない。現実世界はいろいろな可能性に満ち溢れているけれど、それらをすべて検討するなんてことはできるはずがないんです。われわれは自分の文脈の中で生きている。そして、その文脈に沿って現実を解釈してしまいます。だから、自分の文脈から外れるものは、無意識のうちに捨象されてしまいます。

 「幼児のpositive thinking」とは、現前の問題を自分の文脈に引き込み、自分の文脈そのものに対する批判性を持たないような思考です。

 大好きなあの娘に冷たく対応されたとき、「あ、そうか。今日おれが他の女の子と仲よさそうにしゃべってたからか。そんなことで怒るなんてきゃわいいなぁ」と解釈するイタい男の子(男なんてたいていそうなのかもしれないけど)。彼女のほうは「はじめは仲良くしちゃったけど、なんかキモいからあまりかかわらないようにしよう」と思っているのに、そのことに気づけていません。メールの返信が遅いのを、「駆け引きだな」と思うやつも同じです(興味ないから後回しにしてるだけだよ!)。

 自分の「知りたくないこと」は知ろうとしない。そういうもんです。確かに、そういうものなんです。でも、生きていれば必ず自分の今までのフレームではうまく説明できないような事態に出会います。そのときに、どれだけ柔軟に自分自身の文脈を改変できるのか。そこが「幼児」と「成人」の違いです。

 自分の文脈に執着する「幼児」は、目の前の問題を矮小化し、「たいしたことではない」と無視しようとします。そして、それが繰り返されるとやがて不条理な世界に対して攻撃的になる。「なんで僕だけがこんな思いをしなくちゃならないんだ!」と。

 「うまく説明できない」問題に遭遇したときに、自分自身の執着に気づき、今まで、自身の文脈によって解釈されることがなかった事態(捨象されていたもの)を遡及的に(=過去に遡って)回収し、すでに自分が投げ込まれていた新しい文脈を措定する。不条理な世界を自分自身の問題として引き受けながら、その内側で生きていく自分の文脈を探す、それが、僕が言おうとしている「成人」なのです。

 震災に自身の文脈を奪われた漁師はただ立ち尽くす。それは「幼児」だからではなく、きっと「成人」になるために。

 「別れ」とは関係性の消滅ではありません。その人との関係性が変わるということ、その人と生きる自分自身の文脈が書き換わるということ、それまで執着していた文脈に「別れ」を告げ、過去や未来に新しい文脈を解放する試みなのです。

 恋のときめきというのも「私が生まれたのは、この人に会うためだったんだ」という文脈の書き換えによるのです。この文脈がまた新たな執着を生み、世界を歪めてしまう可能性があることは言うまでもありません。それでも変化する世界のなかで、また新たな自分の文脈を生きる。 有限な世界のなかで、無限性を生きてしまう。「別れ」とは、そんな自分に対する「成人の赦し」である。いつまでも続くような関係性があるとすれば、それはきっと「小さな別れ」が繰り返されているのではないでしょうか。