「西荻窪の空と、僕と私たちの世界」第8号

2014年1月某日

(田中から山﨑先生へ)

 山﨑先生、ご無沙汰しております。盗み聞きしている皆さんも、まだいるかな。

 早速ですが、山﨑先生にお伺いします。私たち人間が生きていくうえで一番大切なことって何でしょうか? もちろん、人によってさまざまだとは思いますが、僕はずっとこの往復書簡を書くにあたって、困難の前に立ちすくむ時に寄り添えるような文章を書こうと無謀ながら努めてきたので、今回もそういう視点から書いていきます。

 僕たちが生きていくうえで、何よりも大切なのは、おそらく「社会の中で承認されていること」です。「社会」というのは難しい言葉です。明治時代、societyの訳語として、福沢諭吉や中村正直といった当時の知識人たちが案出した「交際」「人間交際」「会社」といった言葉の中から、しだいに「社会」という言葉に落ち着いた、という経緯を持つこの言葉は、逆にいえば、明治以前の日本にはそれに該当する概念がそもそも無かったということであり、今なお僕たちには理解するのが困難な抽象概念です。それでも、この言葉が「何らかの関係を持つ人間の集まり」のようなものを意味しているという点には異論がないだろうと思います。たとえば、「日本」を1つの大きな社会とみなすこともできますし、会社や学校を1つの社会と考えることもできます。では家族は? うーん、どうかな。じゃあ友達は? 家族よりは近いような気がするけれど。明確な線引きはできませんが、「社会」とは、多かれ少なかれ「自分の好き嫌いではそのメンバーを選ぶことができない人間集団」から形成されている場なのではないでしょうか。好きな人もいれば嫌いな人もいる。でもその中で何とか生きていくしかない。そんな集団を指して「社会」というのではないでしょうか。

 では、「承認されている」とは、どういうことでしょうか。これは、質問をひっくり返して、我々はいかなる場合に社会から「承認されない」のかを考えてみるとわかりやすいかもしれません。1つは、社会の他の構成員の生活を著しく脅かす場合、つまり「犯罪」です。「物を盗む」「他者に危害を加える」といった無法行為が常態化すれば、我々の社会は秩序を失い、崩壊を免れない。そのような行為を排斥するために、犯罪者には、一定の罰が与えられたり、一定期間(最悪の場合一生涯)社会から隔絶されたり、私たちの国を含む少数の国では、国家機関がその人間を殺すこともあるのです。しかし、罪を犯した人も、永遠に社会から排除されるわけではありません。誤解されがちですが、僕たちが排除するのは「犯罪」であってそれを犯した人間全部を否定するのではない。というか、してはいけないということが、憲法に「基本的人権の尊重」として明記してある。だから、法によって「犯罪を償った」ことが認められれば、社会に復帰できますし、社会はその人を再び構成員として受け入れます。

 ところが、犯罪以外にも社会に「承認されない」ケースがあります。それは、「誰からも必要とされていない」という場合、または自分でそう思いこんでしまう場合です。私たち人間にとって、おそらくこれほどつらいことは他にないのではないでしょうか? お金がなくても、少なくとも日本では生活保護が受けられます。しかし、「自分がいてもいなくてもこの世界は何も変わらないんだ」という思いは、しばしば人間を極限状態にまで追いつめます。ところで今、「誰からも必要とされていない」と書きましたが、自分が誰からも必要とされていないというのは、誰が決めるのでしょうか? あるいは、なぜこういう考えに至るのでしょうか。

 一番深刻なのは、誰かに「おまえはいらない」「おまえなんかいないほうがいい」(書くだけで胸がつぶれるような言葉です)というメッセージを直接的・間接的に送られるケースでしょう。あるいは、発言した人にはそういう意図がなかったとしても、「そうか、僕なんか必要ないんだ」と曲解してしまう場合。または、「自分はこの会社に貢献していない」「利潤を生み出すのに役立っていない」それどころか「迷惑ばかり掛けている」といった思い込みから、「自分は役立たずだ→いないほうがいい」という発想に至ってしまうケース。これらはすべて、自分が「社会」から承認されていない、自分の居場所がどこにもないと考えている点で共通しています。

 これは、この往復書簡の短い紙面で書き尽くせるような単純な問題ではありません。それに、こうした問題に関して、僕が偉そうに何かを言う資格などまるでないのです。しかし、この問題に触れないわけにはいかない、という強い気持ちもある。だから、遠回りしながら、恐る恐るこの問題に近づいてみます。