「西荻窪の空と、僕と私たちの世界」第2号

2013年9月某日

(山﨑から田中先生へ)

 みなさん、お久しぶりです。いや、毎回1週間ぶりなんですが。んっ?それも決めているわけじゃないですね。

 さて、前回は田中先生からの「私たちはなぜ、自分の不利益になるようなことを自ら進んでするのか?」という質問に僕なりに答えている途中でした。まず考える前提として挙げたのは、わたしたちの「ままならなさ」についてだったと思います。私たちが自立した自由な主体であるというのは幻想で、実際に自分の意志で自分をコントロールできるのは限定的にであり部分的にである、ということでした。だから「頭ではわかっているのに、行動に移せない」というのは、その人の意志が特別に弱いとかじゃなくて、そもそも人間とは自分の意志だけじゃ行動に移せないものなのだと解釈した方がよいと思います。ここまでお話ししたところで、この質問に対する答えの本質にたどり着くことはできているのですが、もう少しお付き合いください。

 確かに、私たちの現実は「ままならない」。けれども、それは「自分にとって不利益になるようなことを自らする」ことの理由にはなっていませんよね。だって、明らかに自らの意志で自分に不利益な行動をしてしまうことがあるからです。でもね。わたしたちが何かを自分の意志で決定するときには、それが無意識であっても、主観的合理性が成立しているはずです。つまり、どうみても不利益な選択であっても、本人は現にそこからなんらかの利益を得ているわけです。その人の中でいったい何が起こっているのでしょうか。

 目の前にある課題。確かにやらなければいけないし、やることで実力がつくことも分かっている。でもめんどくさい。そんなとき私たちはもう一つの選択肢を作り出すのです。与えられたことをそのままやるという芸もなく不自由なことをするのではなく、あえてそれをやらないところに自分を追い込んで、自らの努力でそれ以上の結果を出すというストイックで、超かっこいい自分を想像してしまう。そしてさらに恐ろしいのは、それでダメになったとしても、本人は自分で選んだというある種の達成感と、ダメな自分に対する予定調和の安心感によって、自分が退屈そうな地道な努力に耐えるだけの精神力がない人間だという事実に本気で向き合うことができないということです。

 「明日の素晴らしい自分」に期待するのは、自分が自分の「思った通り」にできるだろうと信じるからですが、結果としてそうならなくても、「ダメな自分」に対して「やっぱりね。自分の思った通りさ」と考えてしまう。結局、「ままならなさ」に対する自覚の欠如が根っこにあるような気がします。僕の若いとき(今もじゅうぶん若いけど)は、そんな感じだったかもしれないという反省もこめてなんですが、じゃあどんな対処をすればよいのか、ってもうこんな字数!!! 田中先生の質問にうまく答えられた気はしませんが、そろそろバトンタッチしなくては。田中先生、お願いします。